フェティシュ諸神の崇拝/シャルル・ド・ブロス 著/杉本隆司 訳 メモ


序文

・「異教神学のこの二つの要素〔教義的信条と慣習的儀礼〕は、サイベイズムの名で知られている星辰崇拝を軸とするか、あるいはおそらくこれも同じくらい古いだろうが、アフリカの黒人のあいだで存続している、『フェティシュ』と称される物質的な地上の特定の対象への崇拝を軸にして行われているからである。」

・「動物ないしは神格化された無生物を崇拝対象としている」

・本書の構成→三部構成

  • 現代の諸民族のフェティシズムがいかなるものであるかを説明
  • それと古代人のフェティシズムとの比較検討
  • 最後に、これら民族は崇拝行動が同じため、その思考も同じ考え方をしているという結論

第一部 黒人やその他野生民族に現存するフェティシズムとはどのようなものか

・フェティシュという用語→「ポルトガル語のFetissso、つまり魔力をもった、魔法がかった、神的なもの、神託を下すものという言葉に基づいて、セネガルと貿易をするヨーロッパ商人たちが作りだした用語であり、Fatum, Fanum, Fari〔神意、聖所、預言の意味〕というラテン語の語根をもっている。」

・「特定の自然の産物に対するこの崇拝〔フェティシズム〕が俗に偶像崇拝(イドラトリ)と呼ばれる、人工物に対する崇拝とは本質的に違うということである。このような人工物は、崇敬の念が本当に向けられる別の対象〔神〕表象しているにすぎない。それに対して、フェティシズムは、生きた動物や植物そのものに直接に向けられているからである。」→フェティシズムと偶像崇拝の違い。フェティシズムはそのものへの崇拝である。

第二部 古代民族のフェティシズムを現代人のものと比較してみる

・「エジプトの戦争から新たに立証されるのは、採用された動物そのものがひたすら重要なのであって、この動物は真の崇拝対象に由来する任意に選ばれた象徴とは見なされていないということである。」

・「聖書によれば、エジプト信仰に混ざり込んでいる崇拝対象は、はっきりと三種類に区別される。まず偶像、次に四足動物および鳥、蛇、魚といった動物、最後に星辰である。」

・「古代オリエントの諸民族は、現代の野生人が動物をフェティシュとしているように動物を崇拝対象としていた」

・「特定の四足獣や鳥類、魚類、植物ないしは野菜などが、異教徒のあいだでとりわけ特定の神々に充てられているのは、フェティシズムとその後に到来した本来の意味での多神教とが融合してしまったためなのだ。つまり、異教の神々はかつての動植物に取って代わったのだが、なんらかの仕方で人間の心情と崇拝の次元で動植物といわば一体化してしまったのである。かつて本源的なものであった表象〔動植物〕は、時代順からして後代の神々の像に、今日ではたんに慣習的に付着している象徴にすぎなくなってしまった。

→現代の野生人の宗教的特徴と古代のフェティシズムの特徴に共通点があるため、同じものだと考えられる。という結論。

第三部 これまでフェティシズムの期限はどのように説明されてきたか

・エジプトの動物崇拝は偶像崇拝よりも時代的に古い。

→フェティシズムは偶像崇拝よりも古い原初の宗教である。

解題 石塚正英

・「〔フェティシズム〕という述語はド・ブロスの造語である。もともと宗教学の分野でアフリカなどの原初的自然神(フェティシュ)信仰を表すためにド・ブロスが造った語で、〔呪物崇拝〕とも訳す。その後のマルクスが経済学の分野で商品の性格を分析する際に用い『物神崇拝』と訳す。さらには、20世紀になってフロイトが精神分析学の分野で性の倒錯を説明するのに援用した。この分野では片仮名でフェティシズムと記す。

・フェティシズム→「これは本来の宗教以前のもので、本来の宗教の出発点である偶像崇拝(Idolatrie)が存在するよりも古い。宗教でないフェティシズムと宗教の一形態である偶像崇拝との相違は決定的で、たとえば前者においては崇拝者が自らの手で可視の神体すなわちフェティシュを自然物の中から選びとるが、後者においては神は不可視のものとして偶像の背後に潜む。つまり前者ではフェティシュそれ自体が端的に神であるのに対し、後者においてフェティシュはいわば神の代理か偶像かである。その背後か天上にはさらなる高級な神霊が存在する。また、フェティシズムにおいてフェティシュは、信徒の要求に応えられなければ虐待されるか打ち棄てられるかするが、偶像崇拝において神霊は信徒に対し絶対者なのである。」

・フェティシズムにポジティヴな面とネガティヴな面がある。
〔ド・ブロスによれば、原初的フェティシズムでは第一に人が自己の神を自身でつくる。神に選定されるものは、付近に存在している生物・無生物かその断片である。いったん神つまりフェティシュとしたからには、フェティシストはそれを崇拝する。その内容はもっぱら飢餓など不幸からの回避であって、黄金ざっくざくといった欲望の実現ではない。しかしながら、いくら祈願しても、いつまでたっても不幸を遠ざけてくれないと、ついに信徒はそのフェティシュに体罰を加え始める。それでもフェティシュが信徒の願いをきかないと、このフェティシュは棄てられるか、破壊されるか、殺害されるかする。この、崇拝と攻撃ないし転倒と正立の交互的関係性がフェティシズムの特徴なのである。
→この関係性は「一方が他方を永久に圧迫したり廃絶したりすることはない。全体として相互依存の関係にある。」これをネガティヴ・フェティシズムとする。

・逆に「エジプトほかでかつてフェティシュだった物在の多くはその代理物へと格下げになった。この格下げ代理物を、ド・ブロスはイドルと呼ぶ。彼は、このイドルを介しての、信徒を支配するだけの霊的絶対神の崇拝をイドラトリと呼ぶのである。この段階ないし類型ではしたがって、崇拝と攻撃の交互性は奪われている。従属的な崇拝のみの転倒した、倒錯した事態が永久化する。
「そのような可能性を例外的・非日常的に含みつつ、しかし政治権力にささえられて永久の支配権を獲得した超越神の信仰…」をネガティヴ・フェティシズムとする。

・「近代は二項対立をもってあらゆる価値・概念を確定し序列化してきたのであり、その二項がたとえ弁証法的な展開をみせたところで、一方が正ならば他方は反であり、総合とて潜在的に反を生み出す正であるという二項対立関係は依然として解消されえない。近代はしたがって、私の言うネガティヴ・フェティシズムの場である。それに対して近未来においては、二項は攻撃と和解、対立と和合の交互性が発揮される場となるだろう。」


まとめ

  • フェティシズムとは偶像崇拝以前の宗教である。
  • フェティシズムは直接崇拝の形をとり、フェティシュは何かを表象しているわけではない。
  • マルクスやフロイトの使用するフェティシズムはド・ブロスのフェティシズムから派生し、概念が変化したり、全く異なったりする。
  • フェティシズムは崇拝と攻撃ないし転倒と正立の交互的関係性が特徴である。

私の興味と関連して考察

フェティシズムに興味をもったきっかけは、消費されないということを考える際にフェティシズムは記号化されず対象を直接的に信仰するというシステムがヒントになるかと思ったためである。個人的に気になるのは、対象をフェティシュとして選択する仕方や、フェティシュを崇拝する際の個々人の心理を知ることができれば、現代人にとってもフェティシュとなるものをデザインすることができるのではないかと思ったが、そのような記載はなかった。また、おそらく、フェティシュが何であるかはそれほど重要ではないようだ。これはおそらく崇拝と攻撃が交互に入れ替わる可能性を重視しており、イドラトリのように崇拝対象の価値を高めすぎると従属的な崇拝で固定化されてしまうことを避けるためかと思われる。しかし、フェティシュを崇拝する際の個々人の心理の方は検討もつかない。というより、おそらく、個々人でそれぞれ異なる心理で崇拝しているはずだ。


この本からえられたものとしては、この対象を直接的に信仰することと価値の転倒、正立の交互性を建築のシステムに適応できれば全体として消費されないものができるのではと思われる。問題は現代において直接的信仰をどのように作り出すかだ。建築でいうと、機能やコンセプトの代理ではない直接的な魅力のようなものを個人から見つけ出す手法を探す必要がある。これを今後の課題にしてまとめを終えたい。

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