シミュラークルとシミュレーション/ジャン・ボードリヤール 著 竹原あき子 訳 メモとまとめ

《シミュラークルとシミュレーション》、ボードリヤール の前作《象徴交換と死》で論じられた概念を中心に、概念の説明や実例の紹介などで構成されている本だ。消費論からシミュレーションべの移行は別のテーマに移ったように見えるが、消費とシミュレーションは深い関係がある。モノの記号化によってモノが消費されていくのだが、《シミュラークルとシミュレーション》はこの記号から意味が浮遊する部分を説明しているのだと思われるからだ。
また、モノに強度のある意味を込めようとする際に感じる苦悩、何も確かなモノがない感覚、寄る辺のなさ、価値判断の浮遊感の理由もここにある。これはまだまだ抜け出すことができないために今の時代にも通用する消費社会の分析の本だ。


1章 シミュラークルの先行

「シミュレーションとは起源も現実性もない実在のモデルで形づくられたもの、つまりハイパーリアルだ。」

・「それはもはや実在でもない。それはハイパーリアルだ。大気もないハイパーな空間で四方に広がりつつある組み合わせ自在なモデルが合わさってできた産物だ。」

・「表象とは記号と実在が等価であることに由来する。シミュレーションは逆に、等価原則のユートピアに由来する、価値としての記号をラジカルに否定することに由来し、あらゆる総合の逆転と死を宣告するものとしての記号に由来するのだ。」

・「画像(イメージ)は次のような段階を経てきたようだ。
●画像はひとつの奥深い現実の反映だ。
●画像は奥深い現実を隠し変質させる。
●画像は奥深い現実の不在を隠す。
●画像は断じて、いかなる現実とも無関係。」

「シミュレーションの特徴とは、モデルが先行することであり、どんなささいな事件であろうとあらゆるモデルが先行する−−まずモデルがそこにある。」

・「遺伝子コードの進行と共に消えゆくのは、この隔たりだ。(対立する2項の間の隔たり)その時不安定な要素とは、分子の偶然性に拠るというより、むしろ関係が単純に消え失せてしまうことにある。」

「ある極と他の極を、初まりと終わりを分かつものは何もなく、むかしからあった二つの極が互いに折り重なり、気まぐれに衝突し、互いに瓦解し合う。つまり内破(Implosion)だ––因果律が放射するあり方、決定論の差異的なあり方、それを電気の正と負で吸収すること––意味の内破。だから、ここにシミュレーションが始まる。」

→表象はまだ、記号が実在するものを表らわしていた。しかし、シミュラークルの先行=モデルの先行は全てがコードになり、実在や現実から切断されたものが支配し、実在や現実が存在しない世界になる。

→この本によく出てくる「照合系」(照合し照合されるかんけい)という言葉は、ハイパーリアルな空間になる前に対象と実在との間の関係を保ち、相互が照合できる関係のことである。


2章 歴史−復古のシナリオ

・「歴史とはわれわれが失ってしまった照合系、つまりわれわれの神話だ。」

・「実在と絶対的な一致を見ようとする企みと同時に、映画は自己ともまた絶対的に一致しつつある−これは矛盾ではない。なぜならこれこそハイパーリアルの定義だからだ。つまり置き換えと純理論性。映画は、ぬすみ取り、リコピーし、古典を復元し、映画本来の神話を過去にさかのぼって適用し、オリジナルな無声映画より完璧な無声映画を再現などする。これらの試みは理論的だ。なぜなら映画は失われた対象である自己に魅了されているのだから。ちょうど映画が(われわれもまた)失われつつある照合系である実在に魅了されているように。」

・「映画と実在を結ぶ関係は逆に、ネガティブだ。そのような関係になったのは互いの特徴がなくなってしまったからだ。冷やかなコラージュ、クールなごちゃまぜ、冷たい二つのメディアの性別なき婚約、それは互いに接近する漸近線を描いて変化する。というのは、映画が実在の絶対性の中に消えゆこうとしているのに、その実在はすでに映画の(あるいはテレビの)ハイパーリアルに吸収されているからだ。」

・「映画は自ら歴史を消し、記録保管所を降臨させたのだから。写真と映画は歴史をかけめぐった神話を犠牲にして、歴史を俗なものに還元し、歴史を目に見える《客観的》な形に止めようと大いに貢献したのだ。いま、歴史は自ら排除してきたものを再び生あるものにしようと、あらゆる力量と技術を投入することもできよう。だが亡霊だけが蘇り、映画はそこで破滅する。」

→われわれは歴史を失った。映画や写真の領域だけでなく、おそらく建築でも他の領域でも同様に。それは歴史をシミュレーションすることで、事件や物語の神秘的な特質や神話のエネルギーは消え去り、モデルだけが生産されるからだ。そこに実在はない。


4章 チャイナ・シンドローム

・「かつて魅惑に満ちていた爆破の、と同時に革命のあらゆるロマンチズム−そんなスペクタクルで悲愴なエネルギーは、もはや決して存在せず、情報の冷やかなシステムの中に、同種療法程度のシミュラークルと、その蒸留物の冷やかなエネルギーがあるだけだ。」

・「事件はもはや神の定めた宿命ではなく、モデルが先行する、…したがって事件には、もはや意味がない。つまり、事件そのものに意味作用がないのではなく、事件がモデルに先行され、そのモデルと事件のプロセスを符合させるだけのことだ。」


6章 ボーブール効果−内破と抑止

・「今後、唯一本物の文化活動、大衆文化、つまりわれわれの文化(そこにもはや差はない)とは、もはや意味を失ってしまった記号の、操作的で偶然で、迷路のような活動だ。」

・「つまり、ボーブールは文化的抑止のモニュメントなのだ。文化の人道主義的虚構を救うぐらいにしか役たたない博物館仕立てのシナリオを使ってここで展開されるのは、まさに文化の死の作業であり、大衆が嬉々として招かれたのはまさしく文化の喪の作業だ。」

・「大衆とはあらゆる社会性が最後につくりあげる産物だ。そしてそれゆえ、社会性は終わりを告げる。なぜならこの大衆こそ社会体であるとわれわれに信じ込ませようとするのだが、実はその反対で、この大衆とは社会体の内破の場だ。大衆とは全社会体が内破し、そこの絶え間ないシミュレーションのプロセスの渦中で一気に消耗し尽くしてしまうますます高密度化する領域なのだ。」

・「転覆とか暴力的破壊などは生産の様式に対抗する手段だ。ところが回路や組合せ、そして流れの世界に対抗するのは逆転と内破だ。」

・「今日、シミュラークルは複製と再複製ではなく遺伝的ミニアチュア化によるのだ。…非可逆的で内在し、ますます高密度化し、潜在的飽和状態にある秩序のシミュレーションは、もはや何かを解放に導く爆発など決して起こさないだろう。」

・「われわれはかつて、解放をもくろむ暴力的なひとつの文化(合理性という)であった。たとえそれが、資本や生産力の解放や、理性と価値領域の非可逆的あ拡大や、世界中に拡がる、征服され植民地化された宇宙などの合理性であろうと−社会体の未来の力や社会体のエネルギーの先廻りをして起こる革命的暴力であろうと−図式は同じだ。その図式とはゆるやかに、あるいは急激に変化するさまざまな局面を備えた膨張する領域の図式であり、解放されたエネルギーの図式−つまり栄光を夢見ることだ。
それに伴う暴力とは拡大する世界を生む暴力、つまり生産の暴力だ。この暴力こそ弁証法的であり、エネルギーに満ち、カタルシス的だ。それこそわれわれが分析することを学び、われわれにとってなじみ深い暴力であり、社会体の行方にレールを敷き、社会体のあらゆる領域を飽和に導くものだ。それは確定的で、分析的で、解放をもくろむ暴力なのだ。
ところが今、どう分析してよいのかさえわからぬ全く別の暴力が現れる。というのは、その暴力が外に向かって爆発する伝統的な暴力の図式からはみ出るからだ。あるシステムが拡大して生じるのではなく、恒星の物理的システムがそうであるようにシステムの飽和と収縮から生じる内破的暴力がそれだ。(知識、情報、権力の)ネットワークの過密さ、そしてすき間に生ずるあらゆる摩擦を包囲する巨大なコントロールなどにさらされた社会体は角に密度を増し、システムは過度に規制され、その結果起こる暴力だ。…エネルギー非連続、緊張放射、欲望の分子化といったあらゆる思想は、同一の方向、つまり、すき間さえ飽和状態にし、無限にネットワークを張る方向に向かう。質量と分子の差は、膨張するシステムの根本的なエネルギー増大プロセスの中にあるおそらく最後の、モジュレーションでしかない。」

→生産の時代には転覆とか暴力的破壊という対抗手段がとれた。暴力と解放との2項の対立的関係だ(他にも資本、理性、植民地化など)。しかし、シミュレーション時代は同一方向の暴力、システムの飽和と収縮から生じる内破的暴力が生じている。この内破的暴力は非可逆的で、消尽により意味を喪失させてしまう。


7章 ハイパーマーケットとハイパー商品

・「ハイパーリアリティー、過去も未来もないあらゆる機能の同時性、どのような方向にさえも有効な操作性などだ。」

→実在や過去、未来などの方向性や意味による方向づけがないハイパーリアリティーではどのような方向にさえも操作が可能である。モデルと項の組み合わせによる効果のみが浮いている状態なのではないか。


8章 メディアの中で意味は内破する

・「われわれは、ますます情報が増し、意味が次第に減少する世界にいる。
その三つの仮説は次の通りだ。
−情報は意味を生産する。だが、あらゆる局面で意味作用の急激な損失を補い得ない。メディアをかりてメッセージや内容を再注入しようと心がけるが、結局意味の損失や消尽の速度の方が再注入よりはやい。このような状況では衰えたメディアと交代するために、土台の生産性を喚起しなければならない。…
−情報は意味作用とは何の関係もない。それは別のことだ。文字通り意味と意味の循環の外側にある別の次元の操作的モデルだ。…つまり純粋に機械的な情報の領域での仮説によれば、技術的メディアは意味の合目的性とは関わり合いがないのだから、価値判断の際には、意味も情報も対象の外におかれるべきだ。情報はある種のコードだ、発生のコードがまさにそうであるように。つまりコードとはコード以外の何物でもなく、それなりに機能し、意味やその他のことがらはいわば後からついてくる。…
−あるいは、それとは全く逆に、情報が意味と意味作用を直接破壊するか、意味と意味作用を仲裁する限りにおいて、両者の間には厳密で必然的相関関係がある。意味の喪失は、メディアとマスメディアの情報の抑止的解体作業と直接結びついているのだ。」

・「ある現実ともうひとつの現実、ある実在する状態ともうひとつの実在する状態とを媒介する力のある機関はもう存在しないのだ。それは内容にも、形式にも存在しない。まさしくこれが厳密な意味で内破というものだ。互いに極を吸収し、意味の差異を生み出すあらゆるシステムの極の間を短絡し、項、そして明確に対立するものを砕き、その結果メディアと実在が吸収される−だからこそ、あらゆる媒介、二つのものの間あるいは相互の弁証法的介入は不可能だ。

・「内容の内破、意味の吸収、メディア自身のはかなさ、そしていつでもモデルが循環する中でコミュニケーションの弁証法が消え去り、大衆の中で社会体が内破するような確かな事実は危機的で絶望的な様相を見せるかも知れない。だが、そのように見るのはしょせん、われわれ流の情報のとらえ方を支配している、観念論に照らし合わせれば、のことだ。

・「この場合の戦略的抵抗とは意味と音葉を拒否する抵抗ということになる−あるいはシステムのメカニズム自身に超順応主義的シミュレーションで抵抗する。それは拒否と非=受理というあり方だ。」

9章 絶対広告と零広告

・「広告とはしたがって情報と同様、集中の破壊であり慣性の加速だ。」


10章 クローン物語

・「誘惑とは幻覚され、思い起こされ、決して実在とならぬためにしか作用しないものだ。こんな幻覚を他の物と同様に祓いのけようとするのはわれわれの時代に特有なものであった。つまり幻覚を現実のものとし、幻覚を生身のものとし、物質化しようと願い、そして大まちがいにも《他者》と交換すべき死という巧妙な交換の二重の賭けを《同一物》の永遠性に変えてしまった。」


11章 ホログラム

・「超類似性とは、オリジナル殺しと同等であり、それゆえ全く無意味なのだ。どんな分類も意味作用も、どんな意味の形式でも、単純に論理的にX乗するだけでくずれ去ってしまう−−極限に登りつめることとは、人々が《自分の出生証明書》を呑み込むことと似て、いかなる真実もその事実の証拠を呑み込んだあげく、あらゆる意味をなくしてしまうことだ。」

・「意味、真実、実在とは、限られた領域の局部にしか表われ得ないものだ。それらは、部分的なモノであり、鏡、そして等価であるものの部分的な効果だ。あらゆる激増、一般化、極限への移行、あらゆるホログラム的拡大は意味、真実、実在を嘲りの対象としてしまう。」


12章 クラッシュ

・「ただ魅惑的なのだ、だがその魅惑には価値判断がともなわない。」


13章 シミュラークルとSF

・シミュラークルの三段階

  • 「-自然のシミュラークル、自然主義的シミュラークル、像とイミテーション(模造)とコントルファソン(偽造)に基づくシミュラークル、調和がとれた楽天主義的シミュラークル、そして神の像に似せて自然を理想的に復元あるいは造りあげようとする。」
  • 「-生産的シミュラークル、生産主義的シミュラークル、エネルギーに基づくシミュラークル、その力、その物質化は機械にたより、あらゆる生産システムに及ぶ-絶えざる世界化と発展、無限のエネルギー解放といったプロメテウス精神をめざす(欲望とは、このシミュラークルの段階に関連するユートピアの一部だ)。」
  • 「-シミュレーションのシミュラークル、情報、モデル、サイバネティックスゲームに基づく-あらゆる操作性、ハイパーリアル性、それはあらゆる管理をめざす。」

・「ある距離を隔ててしか実在も、空想も存在しない。実在と空想との距離はもちろんのこと、一方的にモデルに有利に働くようにこの距離がなくなったり、吸収されたりする時は、一体どうなるのだろうか。というのは、シミュラークルのある段階から別の段階に移ると、観念あるいは批判を投影する唯一の場であるこの距離を吸収しようとする傾向が見える。」

・「-モデルが内在する時代に至って、この距離は消え去る。モデルはもはや卓越性や投影を形造らず、実在に対する空想をも形成しない、モデルはそれ自体実在の先取りなのだ。だからフィクションの先取りがつけ入るすきなどまるでない-モデルは内在するものだから、どんな空想的な卓越性も付けいる隙間はない。そこに開かれた領域はといえば、サイバネティックな意味でのシミュレーションの領域、つまり、これらのモデルをあらゆる方向に操作する領域だ(シナリオ、シミュレーションされた状況の設定、など)。したがって、このモデルの管理操作と、実在そのものの操作とを区別するものは何もない。つまりフィクションはもはや存在しない。」

・「多分、サイバネティッックスとハイパーリアルな時代のSFは、《歴史的》世界の《人工的》復活の渦中で消耗しつくすしかないだろう。」

・「未開地が全くなくなり、それが空想にゆだねられる時、地図がすべての領土をおおってしまう時、何か現実原則のようなものが消える。」

・「形而上学が終り、幻視が終り、SFが終り、そこにハイパーリアリティー時代が始まる。
そのときから何かが変わらねばならない。つまり投影とか、既知なものから未知なものを引き出すような、SFの魅力だった拡大、縮尺図法的スケールは望めない。実在に立脚して非実在を生み出したり、実在の資料に基づいて空想を産むことも不可能だ。プロセスは、どちらかといえばその逆だろう。例えば、的外れのシチュエーションやシミュレーションのモデルを配置し、そしてそれらに実在の、平凡な体験された色合いを与えようと工夫をこらし、フィクションとしての実在を蘇らせることになるだろう。なぜならまさに実在が、われわれの生活から消えてしまったからだ。」


15章 残り

・「あるシステムがすべてを吸収し、すべてを加えてしまい、何も残らなければ、その総体は残りに変わり、残りとなる。
このような残りこそ社会的機械を再び軌道にのせ、新たなエネルギーを見つけ出す。」

・「われわれを支配するものはもはや生産の経済学ではなく、再生産とリサイクルの経済学--生態学と汚染--残りの経済学だ。」

→実在に立脚して何かを生み出す生産はもうできない。逆に意味や実在を失ったからこそ、それらの再生産とリサイクルが可能になる。シミュラークル的な循環が可能となる。


17章 価値のラスト・タンゴ

・「価値と学習には終わりがある、ところが価値と学習のシミュラークルには終わりがないからだ。シミュレーション宇宙は実在を越えるものであり、終りを越えるものだ。」


18章 ニヒリズムについて

・「昔のニヒリズムの形式に比べれば、われわれは新しい立場にあり、困難な立場にあるのはまちがいない。ロマンティズムは、最初の重要なニヒリズムの現われだ。それは啓蒙思想と同様に外観秩序の破壊に相当する。」

・「シュールレアリスム、ダダイスム、不条理、政治的ニヒリズムなどはニヒリズムの第二の重要な現われであり、これは意味の秩序破壊に相当する。最初のものはまだニヒリズムの美学的形式(ダンディズム)であり、第二のものは政治的で、歴史的で形而上学(テロリズム)的形式だ。」

・「透明性のニヒリズムとは美学的でも、政治的でもない。それは、最後の情熱あるいは黙示録の最後のニュアンスを、外観の絶滅からも、意味の絶滅からも借りようとはしないのだ。」

・「現在あるのは中世の先行であり、中世と無差別な形態の先行だ。」

・「残ったものは、といえば、それは索漠とし、無差別な形態やわれわれを破壊しようとするシステム自体の操作にかかわる魅惑だ。」

・「メディアの中で意味は内破し、群衆の中で社会体は内破し、システムの加速につれて群衆は無限に増大し、エネルギーは袋小路に、そこが慣性点だ。」

・「テロリズムだけがこれを(システムに打撃を与えること)実行する。(
それは残りを消し去る逆転行為だ。ちょうど皮肉な笑みだけがディスクールを頭から台なしにし、奴隷の〔主人に対する〕否認というひらめきだけが主人の権力と快楽を台なしにするように。」

・「意味に希望はない。これでいいにちがいない。意味とは死すべきものだ。だからこそ、そこで意味はつかの間の支配を押しつけ、啓蒙思想の支配を課すために意味は外観を清算しようと企んだのだ。外観は不死身だ。意味あるいは無=意味のニヒリズムにさえ屈しない。 まさしくここに、誘惑が始まる。」


まとめ

  • シミュレーションはモデルの先行、そこには起源も実在(照合するもの)もなしで存在するハイパーリアルな空間を生み出す。
  • シミュレーションはモデルと項の組み合わせによってどんな方向にも操作可能で価値の体系もそこにはない。
  • そのため、近代の2項対立は成り立たない。代わりに一方方向の暴力「内破」が問題となる。
  • 内破は実在との繋がり、意味の差異を生み出す極(距離)、対立する極を吸収する。=内容や意味、実在の消費
  • それによって、内容や意味、実在を喪ったモデルだけが循環、再生産されることによって、システムだけが加速していく。
  • テロリズムだけがシステムを台なしにできるとボードリヤール は言う。それは残り(再生産に回すためのエネルギー)を消し去ることである。
  • ボードリヤール は最後に、意味に希望はない…外観は不死身だと言い切り、誘惑の始まりを告げる。

《誘惑の戦略》へと続いていく…

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