人間ならざるものの環境哲学 複数性のエコロジー/篠原雅武 メモとまとめ(序〜第3章)


本書は篠原雅武氏によってティモシー・モートンの環境哲学を読み解きながら、篠原氏の思考を通して再解釈していく本である。モートンのいう環境は、純粋無垢な自然環境を意味しない。荒廃も含めた人が生きているこの世界を環境と捉えて、その中でのエコロジカルな思考を模索する。エコロジカルな思考の中で重要なのが、闇であり、暗いところであり、<私たちは死んでゆく世界と一緒にいたい>という思考であるとモートンはいうが、ニヒリズム的な思考とは異なる。モートンの主張は新しい人間主体の誕生へと開かれている。
私は建築家でありながら廃墟に強烈に魅了されている。廃墟の持つ独特の質感。人間の構築物と自然の境界が消え去り、モノが人間に隷属されるのではなく、モノ自体として活動し始めるような予感がする。そんなモノの不気味さや他性を感じられる質感を持った建築を模索するためにこの本を読む。

ルール
「」…本書からの引用
『』…本書内での引用
<>…本書内での「」など


序章

・「本書は、ティモシー・モートンの人文学的環境学の読解と解釈を目的とする。」

・「現代の思想が、思弁的実在論の衝撃から始まっていることを前提とする。そのうえで、<相関主義批判>とは違うものとして、自分の試みを位置づけている。」

・「重要なのは相関性そのものの外に出ることではなく、人間と世界の相関性を囲むようにして広範に広がる他の相関性との相互連関のなかに人間の相関性を位置づけて考えることを提唱する。」

・「モートンの隠れた主張は、<諸関係の非関係性>として解釈することが可能である。客体や実体がエコロジカルな諸関係へと入り込むとしても、それら客体や実体は、諸関係そのものによって構成されるのではない。各々が独特で、それぞれに対して奇妙で、曖昧で、謎めいている。」

・「モートンのエコロジー思想では、諸々の部分が一つの全体性へと統合されるというモデルが批判されているが、それだけでなく、部分が他の部分と関係し、関係の中へと埋没するというような関係論的な発想もまた批判されている。」

→人間中心主義から脱却して、人間ならざるものの連関性の中に人間の連関性も位置付けて考える。ただし、全体主義的なモデルや関係を第一に重視する考え方とは異なり、各々の客体や実体が連関の中に入り込んでも<諸関係の非関係性>は保たれている。


第1章 アンビエント・エコロジーへ

・「モートンは、人間をとりまくものという意味での環境を、美学や文学、哲学・思想という観点から、概念化し直そうと試みている。」

・『環境主義とは、人間とそれを取り巻くものとの関係のなかに存在する危機(a crisis in humans’ relationships with their surroundings)への、文化的で政治的な一連の応答のことである。これらの応答は、科学的であったり、活動家によるものであったり、芸術的であったりしうるし、あるいはそれらすべてが混在したものであるかもしれない。』

・「モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には<リズムに基づくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)>があるという直感がある。」

・「人間は、人間が身を置くところに置いて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまり喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。この喜びや愛を生じさせ、感じさせ、共にすることを可能にする、感覚的なものへの配慮が、モートンの環境哲学である。

・「人間ならざるものが、人間の世界へと入り込み、人間に触り、近づいてくる。私たちはもはや、人間の社会なるものを、人間の意識、制度、意志だけで制御することはできない状況を生きている。」

・「モートンは、私たちが生きているところが、均質的な空間ではないと考える。」

・「均質な全体へと包括され得ない、強度をもつ多数の部分が出会いつつ連関していくところに成り立つ環境世界が、モートンの環境思考の起点にある。

・「モートンは、エコロジカルな思考が徹底され、広く浸透していけば、そこで環境が、客観的な対象物としては捉えられなくなるという見通しを示している。」

・「『もの』が私の意識の構成作用と相関している状態にあるとは考えない点で、現象学の立場とは異なっている。」

・「エコロジカルな状態にあるときのものは、人間の生との交わりを取り戻してはいるものの、それでも、意識へと完全に還元されることのない、つまりは意識との非同一性の状態を保つかぎりでは、人間の内面世界からの一定の自律性を獲得している。」

・<私の観点では、現実の客体は他の現実の客体の内側に存在している。『空間』と『環境』は、そこで客体がそれらとの近接性において他の客体へと感覚的に関わり、かつそれら客体がそのなかで己を見出すところのより大きな客体を含みこんでいくような、道筋ないしはやり方である。

・「つまり空間は、人間の意識や想像力の構成物ではない。現実の客体が接近し、出会い、関わっていくなかで発される状態である。客体が空間を発するのが現実であるとしたら、空間を意識や想像力の産物としてなおも考えていく姿勢は、この空間の現実への防衛機制といえるだろう。」

・「環境にもの性を感じるにしても、もの性は私の意識の反映ではなく、無意識性を帯びた状態にある。ただし、モートンが無意識に言及するのは、環境という、人がその中に身を置きふるまう現実の性質を言うためであり、人智を超えた『上方』に位置する超越性という意味で言っているのではない。」

・<アンビエンスとは、主体と客体の分割を崩す、二元論的ではない覚醒の状態を詩的に提示するものである。

・「モートンは詩(Poetry)というとき、それは人間が生きているところを、普遍主義的な概念の硬直性に過度なまでにとらわれることなく、世界へと感性的な水準で触れながら言葉にしていくための緩やかな意識状態のことを意味していると考えられよう。そしてモートンは、この詩的な意識状態にふさわしい言葉が、アンビエンス(ambience)であるという。

・<アンビエンスは、周囲のもの、とりまくもの、世界の感触を意味している。それは、物質的で物理的だが、それでいていくぶん触知しえないもののことを示唆している。あたかも、空間そのものには物質的な側面がある、とでもいうかのように

・「工業的な生産様式のもとで進行するのは、二元論的な思考の、世界における実現である。この実現の産物である人工環境が、今度はそこで生きている人たちの二元論的な思考習慣の支えとなり、その維持存続の条件となる。」

・「モートンの思考は、二元論的思考の産物である、人工世界の実在性の根拠へと向かう。人工世界を、自然に対する支配の産物といった図式のもとで批判するのではなく、まずは人工世界への感覚を手がかりにして、その実在の根拠の脆さ、はかなさを存在論的な水準であからさまにするという戦略である。」

・「崩壊は、二元的な主客の分割のもと緊密に構築されてしまっている人工世界のただ中において詩的感覚が現実に生じていることの経験の条件に関わる出来事である。」

→従来の空間や環境という人間の意識による構成物や超越的な概念ではなく、人間ならざるものが入り込むことができる状態をアンビエンスと表現する。アンビエンスは、周囲のもの、とりまくもの、世界の感触を意味している。物質的で物理的だが、触知しえない。人間ならざるものへも感覚的に配慮することができる詩的な意識状態である。


第2章 荒廃のエコロジー

・「モートンのいう環境は、普段は人間の意識、ないしは自我の働きにより抑圧され、無いことにされてしまっている。」

・<アンビエントな詩は、ジャック・デリダのいう内部と外部の根本的な形而上学的区分を掘り崩すことにより、この世界を生じさせる。>

・「アンビエントな詩性において感覚されるとき、環境は、私たちの生活と区分されつつ緊密に結ばれながらそれを包含するものというよりは、私たちの生活をも含めた様々な要素が入り込み出会い接触していくことを許す余地を内包する場になっている。

・「記号が相互依存的であること、なんらかの記号の存在が他の記号との並存を含意していると主張する。モートンが独特なのは、記号の相互依存性を、環境的なものとしてとらえ直しているからである。記号がそれ自体、他の記号との相互依存性において環境を形成していると考えているからである。この想定が、テクストの基本的構成要素である記号の複合的な連関が織りなすテクストはじつは環境的なものとして存在しているというモートンの主張の基本にある。」

・「テクストがほかのテクストであるとは、テクストは一つのテクストとして完結されることがない、ということである。テクストとして書かれる過程では、そこに先立つところで書かれたときに使われた言葉や文がそれ自体成分となってそのテクストの構成要素になり、かつほかの要素と連関していく。テクストにするという行為自体が、この行為とのかかわりのなかにあってコンテクストをなすさまざまな要素を連関させ、環境化するということだが、この連関においては、さまざまでそれぞれに異なる要素が違うまま連関されていく。この連関においてテクストが書かれ、形を成し、存在するようになる。かくして存在するテクストは、それの形成の源である連関から離れ切断されている点ではこの連関に対し異物であるが、この連関において環境性を生じさせている点では、この連関へと内包されている。ゆえに、テクストはコンテクストから区別され、違うものとして存在しつつも、全面的にそこから切り離されずコンテクストそのものとしても存在している。」

・「不吉だが新しいことを、この読解をつうじて感じさせてくれるテクストこそが、重要である。」

・「消し跡と静寂は、都市というテクストが解体され、その構成部分である空地が放擲されるところに、現実に生じている。これこそが、モートンのいうアンビエンスとしての環境への入り口である。」

・「モートンは、言葉として発され、文章へと構成されていくことの産物である詩作品を、空間性のあるものとしてとらえる。そして、詩において具現化されるこの空間を、お香の煙の匂いで満たされた空間と同様のものとしてとらえる。ここでいう空間は、お香を焚きしめるなかで発される煙と匂いで満たされていくところに実在する空間である。三次元座標に表現される抽象的な空間とは区別される。さらに、モートンがその存在を指摘する空間は、詩にするという制作をつうじてはじめて提示される。世界への直観、瞑想、想像といった能力がつくりだす空間である。

・「アンビエンスを感じそこから思考することは、私の意識の外側において広がりつつもその内にわが身を浸し揺れと未確定性を感じとることのできる領域において、その揺れと未確定性を感じつつ、意識のなかで全面的に抑圧せずに、思考することである。」

・「アンビエンスは、たしかに固有の場所性のあるものとなって発され、生じているのはたしかだとしても、それを一つの場所へと固着させると、とたんに地域主義的で、偏狭な身内意識に転化する。」

・「モートンが場所の概念を、単一で固定的ではなくむしろ偶然的で不思議なものとして定義し直そうとするのも、エコロジカルな思考がともすれば偏狭な場所意識へと転じ、排他的で硬直したものになりかねないということ危惧しているからである。」

→環境は私たちの生活を含めた様々な要素が入り込み接触していくことを許す余地を内包する場であり、そこではさまざまでそれぞれに異なる要素が違うまま連関されていく。つまり違うものとして存在しながらも相互連関の中で環境ができる。しかし、この相互連関は固定的なものというよりは一時的な仮の姿と捉えられ、また別の要素が入り込み連関していく余地がある緩やかで偶然的な場がモートンのいう環境である。


第3章 「もの」のエコロジー

・「モートンは、消費社会の宇宙に不整合があると、感覚している。」

・「モートンのものの思考が独特なのは、ものそのものの素朴さに、物理的実在としての存在感のおもしろさに着目しているからではなく、商品世界という、アウラがそのなかで崩壊しつつも商品が物神性を帯びていく渦中で、もののもの性が前景化してくる条件を考えようとしているからである。」

・「対象とのくつろぎをつうじたかかわりは、<自然の美学化と支配のいずれもがその拠り所とする主体と客体の二元論を壊していく>。モートンは、くつろぎを、壊し、分解していく過程ととらえる。そこで起こるのは、<物象化された客体と、さらにいうなら物象化された主体の崩壊>である。

・「人はくつろぎの状態において、まさしく自分が身をおくところを環境として経験する。モートンは、この経験の状態にある人間こそが、ハイデガーのいう現存在としての人間ではないかと問いかける。さらにモートンは、アンビエンスが立ち現れるのはまさにこのときであると議論を進める。」

・「くつろぎは、アウラという皮膜が破れものが前景化する状況を深く感覚するための知覚様式であると考えている

・「全体化とはつまり、ゆるやかさが生じ、発展するのを阻止することである。余計なものの発生を阻止することであり、全体の円滑な作動の妨げとなる要因の発生を阻止することである。」

・「大切なのは連関そのものというよりはむしろ、そこでゆるやかさが、不整合の余地があり、この余地において、人の存在が、さらにはものの存在が、許されていることである。連関が過密にあり、接続状態が過度になっていくならば、不整合の余地は、むしろ奪われていくだろう。

・「モートンは、全体性を開かれた相互連関と考えるだけではなく、閉ざされて単一的な全体性(ファシズム的な全体性)を超えていくものとして考えようとする。」

・「もののもの性は、他性であり、非同一性である。モートンの関心は、ものそのものというより、ものが他性において、非同一性において存在しているというその奇妙さに向けられている。

・「他性ないし非同一性において存在しているものは、異物であり、ゆえに不愉快で、不慣れで、心地よくない。そして、この他性、非同一性は、『私』として確定された人間主体の外側だけで出会われるのではない。他性、非同一性の状態にある複数のものがただ連関していく状態が、内や外という区分とはかかわりなしに存在している。そこに『私』がいるとしても、それは、深層にある他なるものの連関に対し、その上澄みのようなものとして存在している。『私』なるものに対し、ものの相互連関は、意識化されることはなくてもどことなく非同一で、異物で、不快に感じられる何ものかとして、存在している。ただし、非同一で異物であっても、そこで『私』は存在し、かつ『私』の内に、ものが『それ』として存在している。そこで私たちに求められるのは、<私たちの内においてもっとも客体化されている、『幾千もの不快な事物』を理解し、ありがたく思うこと>である。

→アウラの崩壊がもののもの性を前面化する。そのもの性を深く感覚するための様式がくつろぎである。
このくつろぎの状態で経験されるのがゆるやかさや、不整合の余地である。言い換えると、くつろぎは、アウラなきもののもの性を深化させ、ゆるやかに存在させる。この状態における『もの性』は他性、事物性、非同一性であり、不愉快で、不活性で、無意味なものである。そこで重要なのは、もの=他なるもの=不快さを理解し、ありがたく思うことである。


後半へつづく…

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