《シミュラークルとシミュレーション》、ボードリヤール の前作《象徴交換と死》で論じられた概念を中心に、概念の説明や実例の紹介などで構成されている本だ。消費論からシミュレーションべの移行は別のテーマに移ったように見えるが、消費とシミュレーションは深い関係がある。モノの記号化によってモノが消費されていくのだが、《シミュラークルとシミュレーション》はこの記号から意味が浮遊する部分を説明しているのだと思われるからだ。
また、モノに強度のある意味を込めようとする際に感じる苦悩、何も確かなモノがない感覚、寄る辺のなさ、価値判断の浮遊感の理由もここにある。これはまだまだ抜け出すことができないために今の時代にも通用する消費社会の分析の本だ。
1章 シミュラークルの先行
・「シミュレーションとは起源も現実性もない実在のモデルで形づくられたもの、つまりハイパーリアルだ。」
・「それはもはや実在でもない。それはハイパーリアルだ。大気もないハイパーな空間で四方に広がりつつある組み合わせ自在なモデルが合わさってできた産物だ。」
・「表象とは記号と実在が等価であることに由来する。シミュレーションは逆に、等価原則のユートピアに由来する、価値としての記号をラジカルに否定することに由来し、あらゆる総合の逆転と死を宣告するものとしての記号に由来するのだ。」
・「画像(イメージ)は次のような段階を経てきたようだ。
●画像はひとつの奥深い現実の反映だ。
●画像は奥深い現実を隠し変質させる。
●画像は奥深い現実の不在を隠す。
●画像は断じて、いかなる現実とも無関係。」
・「シミュレーションの特徴とは、モデルが先行することであり、どんなささいな事件であろうとあらゆるモデルが先行する−−まずモデルがそこにある。」
・「遺伝子コードの進行と共に消えゆくのは、この隔たりだ。(対立する2項の間の隔たり)その時不安定な要素とは、分子の偶然性に拠るというより、むしろ関係が単純に消え失せてしまうことにある。」
・「ある極と他の極を、初まりと終わりを分かつものは何もなく、むかしからあった二つの極が互いに折り重なり、気まぐれに衝突し、互いに瓦解し合う。つまり内破(Implosion)だ––因果律が放射するあり方、決定論の差異的なあり方、それを電気の正と負で吸収すること––意味の内破。だから、ここにシミュレーションが始まる。」
→表象はまだ、記号が実在するものを表らわしていた。しかし、シミュラークルの先行=モデルの先行は全てがコードになり、実在や現実から切断されたものが支配し、実在や現実が存在しない世界になる。
→この本によく出てくる「照合系」(照合し照合されるかんけい)という言葉は、ハイパーリアルな空間になる前に対象と実在との間の関係を保ち、相互が照合できる関係のことである。
2章 歴史−復古のシナリオ
・「歴史とはわれわれが失ってしまった照合系、つまりわれわれの神話だ。」
・「実在と絶対的な一致を見ようとする企みと同時に、映画は自己ともまた絶対的に一致しつつある−これは矛盾ではない。なぜならこれこそハイパーリアルの定義だからだ。つまり置き換えと純理論性。映画は、ぬすみ取り、リコピーし、古典を復元し、映画本来の神話を過去にさかのぼって適用し、オリジナルな無声映画より完璧な無声映画を再現などする。これらの試みは理論的だ。なぜなら映画は失われた対象である自己に魅了されているのだから。ちょうど映画が(われわれもまた)失われつつある照合系である実在に魅了されているように。」
・「映画と実在を結ぶ関係は逆に、ネガティブだ。そのような関係になったのは互いの特徴がなくなってしまったからだ。冷やかなコラージュ、クールなごちゃまぜ、冷たい二つのメディアの性別なき婚約、それは互いに接近する漸近線を描いて変化する。というのは、映画が実在の絶対性の中に消えゆこうとしているのに、その実在はすでに映画の(あるいはテレビの)ハイパーリアルに吸収されているからだ。」
・「映画は自ら歴史を消し、記録保管所を降臨させたのだから。写真と映画は歴史をかけめぐった神話を犠牲にして、歴史を俗なものに還元し、歴史を目に見える《客観的》な形に止めようと大いに貢献したのだ。いま、歴史は自ら排除してきたものを再び生あるものにしようと、あらゆる力量と技術を投入することもできよう。だが亡霊だけが蘇り、映画はそこで破滅する。」
→われわれは歴史を失った。映画や写真の領域だけでなく、おそらく建築でも他の領域でも同様に。それは歴史をシミュレーションすることで、事件や物語の神秘的な特質や神話のエネルギーは消え去り、モデルだけが生産されるからだ。そこに実在はない。
4章 チャイナ・シンドローム
・「かつて魅惑に満ちていた爆破の、と同時に革命のあらゆるロマンチズム−そんなスペクタクルで悲愴なエネルギーは、もはや決して存在せず、情報の冷やかなシステムの中に、同種療法程度のシミュラークルと、その蒸留物の冷やかなエネルギーがあるだけだ。」
・「事件はもはや神の定めた宿命ではなく、モデルが先行する、…したがって事件には、もはや意味がない。つまり、事件そのものに意味作用がないのではなく、事件がモデルに先行され、そのモデルと事件のプロセスを符合させるだけのことだ。」
6章 ボーブール効果−内破と抑止
・「今後、唯一本物の文化活動、大衆文化、つまりわれわれの文化(そこにもはや差はない)とは、もはや意味を失ってしまった記号の、操作的で偶然で、迷路のような活動だ。」
・「つまり、ボーブールは文化的抑止のモニュメントなのだ。文化の人道主義的虚構を救うぐらいにしか役たたない博物館仕立てのシナリオを使ってここで展開されるのは、まさに文化の死の作業であり、大衆が嬉々として招かれたのはまさしく文化の喪の作業だ。」
・「大衆とはあらゆる社会性が最後につくりあげる産物だ。そしてそれゆえ、社会性は終わりを告げる。なぜならこの大衆こそ社会体であるとわれわれに信じ込ませようとするのだが、実はその反対で、この大衆とは社会体の内破の場だ。大衆とは全社会体が内破し、そこの絶え間ないシミュレーションのプロセスの渦中で一気に消耗し尽くしてしまうますます高密度化する領域なのだ。」
・「転覆とか暴力的破壊などは生産の様式に対抗する手段だ。ところが回路や組合せ、そして流れの世界に対抗するのは逆転と内破だ。」
・「今日、シミュラークルは複製と再複製ではなく遺伝的ミニアチュア化によるのだ。…非可逆的で内在し、ますます高密度化し、潜在的飽和状態にある秩序のシミュレーションは、もはや何かを解放に導く爆発など決して起こさないだろう。」
・「われわれはかつて、解放をもくろむ暴力的なひとつの文化(合理性という)であった。たとえそれが、資本や生産力の解放や、理性と価値領域の非可逆的あ拡大や、世界中に拡がる、征服され植民地化された宇宙などの合理性であろうと−社会体の未来の力や社会体のエネルギーの先廻りをして起こる革命的暴力であろうと−図式は同じだ。その図式とはゆるやかに、あるいは急激に変化するさまざまな局面を備えた膨張する領域の図式であり、解放されたエネルギーの図式−つまり栄光を夢見ることだ。…