人間ならざるものの環境哲学 複数性のエコロジー/篠原雅武 メモとまとめ(第4章〜終章)


本書は篠原雅武氏によってティモシー・モートンの環境哲学を読み解きながら、篠原氏の思考を通して再解釈していく本である。モートンのいう環境は、純粋無垢な自然環境を意味しない。荒廃も含めた人が生きているこの世界を環境と捉えて、その中でのエコロジカルな思考を模索する。エコロジカルな思考の中で重要なのが、闇であり、暗いところであり、<私たちは死んでゆく世界と一緒にいたい>という思考であるとモートンはいうが、ニヒリズム的な思考とは異なる。モートンの主張は新しい人間主体の誕生へと開かれている。
私は建築家でありながら廃墟に強烈に魅了されている。廃墟の持つ独特の質感。人間の構築物と自然の境界が消え去り、モノが人間に隷属されるのではなく、モノ自体として活動し始めるような予感がする。そんなモノの不気味さや他性を感じられる質感を持った建築を模索するためにこの本を読む。

ルール
「」…本書からの引用
『』…本書内での引用
<>…本書内での「」など


第4章 幕張ダークエコロジー

・「うつ的な精神状態が、建造環境において、空間性のあるものとして具体化されてしまっている。この現実を指摘し、さらにこれをどう考えたらよいのかを問うことが、モートンの目的である。」

・「生真面目な人は、イメージの増殖、現れることの多様性、曖昧さに耐えられない。自分がさまざまに現れてしまっていることにも、他人がさまざまに現れてしまっていることにも、耐えられない。さまざまに現れてしまっている『私』を、この世から消してしまいたいと考える。そこにうつ状態が生じてくる。」

・「モートンの考察は…喜びの生じる余地を除去し意図して楽しいと思えない状態がつくりだされていることを問題化するものである。」

・<始まりは変成的だが、終わりは美しいくらいに対称的である。生は歪みであるが、死は平和である。ちょうどフロイトが死の欲動について論じているように。始まりは歪みである。終りは首尾一貫したものになることである。殺すか破壊することは、何ものかを、首尾一貫したものに還元することである。>

→うつ状態は空間性のあるものとして現れている。これは第3章で語られているくつろぎの状態と逆で、首尾一貫した曖昧さのない、喜びの生じる余地のない状態である。


第5章 死んでゆく世界と一緒にいること

・「入口が、部分としての入口が、多数ある。そして多数の部分は、一つの全体としての構築性の部分となって従属しない。それは逆に言うと、一つの全体が複数の部分を包括し抑圧し制圧するということが困難であり、そもそもありえない状況になりつつある、ということである。」

・「モートンはまず、世界が終わるということを、これまで続いた状態が途絶し、死滅し、週末を迎えることとは考えない。これまでに私たちの心身を規定し感覚と思考を規定してきた、認識枠としての『自然』や『世界』や『生活世界』や『システム』を参照するのではわかりえない歴史的状況に突入していくこととして、考えている。

・「崩壊において解放され、その存在がより明瞭になった無数の部分、入口、敷居を生きていることの奇妙な現実性から、抑圧的な全体性が意味を失った後の世界が始まるという見通しを提示していく。」

・「産業革命と核爆発。この二つが世界を終わらせていく。意図せざる副産物が増大し、地球上に溢れていくことで、『世界』や『自然』や『システム』といった、全体性の水準でそれなりに存在すると信じられていた概念が、意味を失っていく。これが世界の終わりである。モートンは言う。」

・「世界の終わりは、こちら側とあちら側、今とかつてを安定的に経験させる時空の座標軸の崩壊であり、失効である。」

・「モートンのいう世界の終わりは、具体的な災害が引き起こすシステムの撹乱とは、別の水準で起きている。それは、人間がその確かさを信じてきた、自然、世界、環境といった概念枠が、現実の出来事を目の前にして無効になっていくこととして、経験される。」

・「人間の有限性を人間の他の存在の有限性との連関のなかで認め考え直そうとしている。」

・「世界や場所の概念が消滅するとき、人間ならざる客体が人間に触れていることの現実性が、明瞭なこととして感じれるようになるだろう。<私たちは世界を喪失するが、魂を手にする。私たちと共存している実態が、私たちの自覚のなかへと、いっそうの切迫感とともに入ることになる>。これが、モートンのいう、エコロジカルな文化的転換である。

・「私が現実に生きていてさまざまな客体が触れてくるところを、何らかの言葉を使って言い表す、それも、『空間』や『場所』という概念をその抽象性のまま素朴に使わず、ただ素材が素朴に集積し連関しているというのでもなく、客体が連関し、質感を発し、それでいて完全には現れることなく『私』を誘い触発してくる、そのようなところを、言葉を使って言い表す。そこでモートンが使ううのが、『ゾーン』である。」

・「客体が複数あり、私たちを魅惑してくるところに生じるゾーンのなかに、私たちは生きている。ただし、繰り返しになるが、ゾーンは私の自由意志に属さず、客体が発するところに置いて成り立ち、私たちを内包する。ゆえに、人間化された『世界』や『空間』の概念を、ゾーンは焼きつくす。」

→モートンのいう世界の終わりは、これまで信じられていた大きなものとしての『世界』や『自然』や『システム』といった概念が意味を失っていくことである。そのとき、人間ならざるモノが人間に触れていることの現実性が感じられるようになる。これが、エコロジカルな文化的転換である。


第6章 内的空間へ

・「どれだけ堅牢で永続的であるように思われるとしても、いかなる空間も一時的で脆い状態にある。そもそもが、空間は堅牢で触知可能な実態のようなものとしては存在しない。生産された空間が確として存在するという確信は、じつは幻想にすぎない。本当は、あらゆる空間がジャンク・スペースとして捉えられることを要する。放擲された空間のただなかで私たちは、空間のいっそう深い水準について、考えるようになるだろう。」

・「モートンは、事物の感覚的な質感を重視する。これらの質感の各々は過程の流れへと還元されえず、ただ他の実体のために、他の実体との出会いのなかで、共存する。ただし、これらの実体は、ただ互いに対して異なっているだけでなく、自らの内へと引きこもっている。 つまり、客体的な事物の感覚的な質感は、引きこもりつつも仄めかされている。これらは現実として存在しつつも、常に現前することはない。モートンが事物の現実性を<何らかの謎、秘密と呼ばれているもの>として議論するとき、この謎、秘密は、事物がつねには現前しないという側面(not-present aspect)に対応している。

→空間は、諸々の客体的な事物に先立つところにおいて存在するのではない。空間の放擲は、もののもの性が隠蔽された空間的構築物から、そのもの性を引き剥がし、それ自体で存在し始めるようになるための契機である。放擲された空間でこそ複数の実体が、それらに固有の雰囲気をもつ空間性を発しつつ、共存している。固有の雰囲気=事物の感覚的な質感を感知するためには、私たち自らの内的空間へとあらためて立戻らなくてはならない。


ティモシー・モートン・インタヴュー2016

「・私たちが必要とするのは、人間ならざる経済的な様式を含むような経済理論です。なぜなら経済理論とは、根本のところでは、楽しみenjoymentをいかにして組織化するかということにかかわるからです。」

・「あらゆるイズム、構築主義、シュールリアリズム、ポストモダニズム、消費主義といったものですが、これらは正しい態度を獲得することを意味しました。カントの言うように、物があり、それにかんするデータがあるとすると、人間はデータにアクセスするだけですが、イズムは、データへのアクセスにかかわります。アクセスの方法を変えることにかかわるのですが、おそらくはそのことで現実が変わると考えてしまう。…新しいイズムを求め、イズムからイズムへと乗り換えるのをやめて、現実が私たちにぶつかってくるのをうけとめようとし始めている。イズムのゲームをやめ、多くの事物が私たちの態度へとぶつかってくるのを許容しようとし始めている。だからOOOの建築が興味深いのです。OOOの建築はイズムではないと思います。建築は、イズムを消費し、イズムを建築の形態で表現するということを習性にしてきました。もしも、事物はイズムでは把握できないし、表現することもできないとしたら、それをどうやって、建物において表現するのか。もはやイズムの表現でないとしたら、それは、建物によって、物理的な存在としての人間を変えることにかかわります。人間存在の態度を変えるのです。…OOOが暴き立てるのは、あらゆるイズムが人間中心主義的である、ということです。それをも脱却するならば、そこには鳩イズムもあるだろうし、ネズミイズム、蝿イズムもありうるだろう。建物イズム、階段イズムもありうるだろう。コンクリートイズムも。階段も人間に接近してくるし、ゆえに何らかの態度を持つ。階段にもイズムがありうる。こう考えるなら、もういっそうのこと、建物の設計に人間ならざるものが入り込むのを許してしまえ、ということになる。これがOOOです。これまでは人間ならざるものを除去してきましたが、これからの建築は、もっと曖昧なものを非暴力的に許し、他の生命形態が入り込むのを許すものになっていく。傷つけたりせず、もっと非暴力的な共存です。


→現代の建築は人間のための、人間中心主義の建築のための設計手法で成り立っている。曖昧なものを非暴力的に許し、他の生命形態が入り込むのを許すためには、従来の設計手法や建築の知識だけでは生み出せないと思われる。そもそも、デザインという建築家の思想で空間を構成するという考え方自体が合っていないように思う。ものの組み合わせ方や時間の捉え方、環境、人間存在の思考、図面の描き方などを別のものにする必要があるのではないかと感じる。


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